【レッスンから】共感と感性と個性の狭間
高校生のレッスンから、すごく考えさせられることがありました。
私たちは、何百年の時を超えて、外国人の作曲家が作った曲を、今、現代の日本に生きながら演奏しています。
何百年も前の人が考えたことなんて、分かりゃしない。
わかりゃしないんだけど、いろいろな記録や、研究や、想像力を使って、分かろうとしながら演奏しているわけです。
そうすると、だんだんと、わかりゃしないくせに、どこか「共感」が見え始める。
いや、そんなことしなくても、結局、人は人。
響きの中に、なんか「分かるような感じ」や共感を感じたりします。
例えば、分かりやすい響きで言えば、コードCだと明るい感じがして、Cmになると、どこか寂しい感じや暗い感じがする。
…。
しますよね?
これって、すごくないですか。
音楽勉強していない人でも、「する!」って、言うんですよ。
もちろん、細かい感情はいろいろ違うと思うんですけど、おおざっぱに、「明るい」と「暗い」っていう「共感」があるじゃないですか?
…。
ありますよね?
この「音」の力って、すごいですよね。
何百年も前の人が、それを発見して、現代の異国の私たちと、同じような感情をもってその「音」を鳴らしていたとしたら。
そういうことを感じながら、クラシック音楽って演奏していくと思うんですよね。
…。
と、思っていました。
彼女のレッスンをするまでは。
彼女(生徒)は、ま、いつも私とちょっと感覚が違うなとは感じていたのですが、
特に、先週のレッスンでは、確信的な出来事がありました。
曲はなんでもいいんだけど、例えば、ショパンのエチュードの革命↓
①と②のところ。
同じようなフレーズだけど、2分音符の和音で、①はラの♭だったのが、②はナチュラルになる。(そして、左手にもfisが出てきますが)
ラの♭で暗めで、悲壮感のある和音が、ナチュラルになって、「明るく」なる。
私は、閉鎖的で圧迫されているようなところから、解放されるような開放されるような勢いがある音に感じます。
ところが、「彼女」はどんな感じがするか、聞いたら、
「ゆるむ感じ」っていうんですね。
そして、そこ、柔らかい音で、どちらかというと弱い音で弾いたんです。
私と真逆を感じて弾いていたんですよね。
多少の違いはあれど、真逆って、結構衝撃的です。
「共感」が全然ないんですよね。
最初は、え⁉ってびっくりしたんですけど。
でも、冷静になって考えると、そう感じたんだから、どうしようもないですよね。
感じ方までは、強制できない。
そして、そういわれちゃうと、私だって、果たして、私の感覚が、200年前のショパンの感情と同じかと言われたら、そりゃ~、同じだと言い切れないし。
でも、待てよ。と。
そんなこと言ったら、なんでもありになりすぎちゃう。
感じ方は自由だけど、それを自由に自分勝手に弾いてもいいということにはならないでしょ。
と、思う。
そして、その一つのヒントに、ラの♮の和音のところには、sf(スフォルツァンド)とテヌートが書いてあります。
ゆるむ、優しい感じで弾いてほしかったら、sfはないよね。
と思うのです。
と、自分を正当化させてしまったけれど、これは、クラシック音楽を演奏するうえで、演奏を左右する「共感性」の問題って、結構、大きいと思いました。
Cmは「暗い」ってみんな思うよねという「共感」の上で作られた曲が、
もし、Cmは「明るく感じる!」って思った人が演奏したら、ちぐはぐな曲になっちゃう。
でも、「明るい」って感じちゃう人に、「暗いって感じろ!」っていうのは、難しくないですか?
でも、振り返ると、私も、高校生の頃は、そんな「大人」の「共感」なんて分からずに弾いていて、だんだん分かってきたような気もするから、
やっぱり、いろんな音楽聞いたり、いろんな人の話聞いたり、解釈したりしながら、「共感」が作られていくのかなぁとも思ったり…。
そんなことをごちゃごちゃ考えながら、今の彼女に、どんな風にレッスンしたほうがいいのか。
私にとっても、勉強だなぁ。
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